2008年08月22日

Vol.01 10-13 サル社会の愛情

三戸サツエ

サルが島ただいま90頭


 宮崎県の日南海岸の一角にある串間市市木石波海岸の沖合い300メートルのところの島に昔からサルが住んでいました。村の人はサル島と言っていますが、この島の名は幸島です。
 幸島は、青く高い空から照りつける強い太陽の光と、南支那海から押し上げてくる黒潮に洗われて、冬も暖かく、バナナ、アコウ、ビロー、マルバアオダモ、ハカマカズラ等の亜熱帯植物が群生し、またイヌビワ、キイチゴ、アケビ、ムベ、野生のミカン、ヤマモモ、サンゴ樹の真赤な実など、四季の果実が豊富に実り、全島冬でも緑濃い照葉樹林におおわれています。まわりの海は、イセエビ、アワビ、ヨメガガサなど数知れない豊かな海の幸に恵まれています。ただいま90頭のニホンザルとウサギやタヌキが住んでいて、その名に示すとおり幸多い自然の動植物園です。
 私はこのサル達と40余年かかわりあってくる中で、サルの社会にも愛したり憎んだりする細やかな感情生活があることを知りました。母ザルが子ザルへ、子ザルが母ザルへ、姉ザルと弟妹ザル、またはリーダーと群れのサル、オスとメスの間に取りかわされる感情の表現がみとめられて私はおどろいてしまいました。
 「死児を抱いてさまよう母ザル」「乳ガンで死期の近づいたことを悟った母ザルが死に場所を求めて群れから離れて行くあとを心配そうについていく子ザルの姿」「年老いて失明した老ボスをみんなで守ってやったこと」など、今でも私の心に焼きついています。その中の死んだわが子を抱いて59日間もさまよったお母さんのお話をいたします。

死児を抱いて


出産

 南国の太陽がギラギラと幸島のオオドマリ湾の砂浜に照りつけている昭和33年7月9日の朝のことです。お山からおりて来た銀毛をしたウツボというお母さんザルは、ヘソの緒を長くひっぱった赤ん坊ザルを抱いて出て来ました。うぶ毛はまだぬれていて黒光をおび、赤い顔をしていました。きっと今朝早く産まれたのでしょう。
 大将岩の上で、しっかりと赤ちゃんを抱いてひとやすみしているウツボは慈母観音さまのように美しい顔でした。一日中赤ちゃんは、お母さんザルの胸にしっかりとつかまり乳を飲んだり、眠ったりしています。
 赤ん坊が生まれて5日目頃から目に見えて元気がなくなってきました。赤味をおびていた顔は蒼(あお)白くなり生気がなくなってきました。それでも赤ん坊は必死にお母さんの胸にしがみついていました。
 もう年で、毛もめっきり白くなっていたウツボは、顔のしわもふえ、お乳もあまり出そうにありません。私はどうか無事に育ってくれるようにと祈りました。
 生まれてから1週間目です。この日はひどく暑い日でした。白い砂浜に反射する熱気は肌に焼きつくように感じました。
 でも、小舟をこぎ出すと涼しい風がほほをなで波もない静かな海は底を泳いでいる魚が手に取るように見えました。私の漕ぐ櫂の音を聞きつけたサル達が、木々の間から顔を出し一斉に「クイ、クイ、クイ」と歓声をあげて迎えてくれました。私は、
 「ウツボの赤ちゃん、どうか元気でいますように。」と祈りながら島にあがり、赤ん坊を抱いたウツボの姿を捜しましたが、どこにもいません。いつもなら群れの真中でいばっているのに.....。
 しばらくして、森の方からウツボは出て来ました。赤ん坊は両手でお母さんの胸をしっかりとつかんでいますが、後足はもうつかむ元気もなくだらりとたれ下がっています。お母さんは、赤ん坊を片手でしっかりと抱きかかえています。4本の手足が十分に使えないお母さんは、山や谷をこすのに、みんなからこんなに遅れてしまったのです。この赤ちゃんは、もうそう長くは生きていられないと私は思いました。おかあさんザルは、それを知っているのでしょうか。

サル社会の愛情/昭和33年8月7日
昭和33年8月7日


赤ん坊ザルの死

 ウツボの赤ちゃんは、とうとう死んでしまいました。お母さんは、死んだことがわからないのかしらん。死体をしっかりと抱いていました。だらりとたれさがっていた手足はそのままかたくなって、頭から足の先まで、伸びきっています。ウツボが歩くと、その死体がひきずられて、砂の上に1本の線を引いていきます。
 高い木に飛びあがるときも、雑木の茂みを走るときも、ウツボは片手しか使えません。元気な赤ちゃんザルは、生まれるとすぐ両手でしっかりとお母さんの胸につかまるのでお母さんザルは、4つの手足を自由に使って行動ができるのです。でもウツボは死んだ子をだいているので、片手で木から木へ渡って行きます。みんなについて行くのにさぞつかれることでしょう。その姿があわれでなりません。
 日がたつにしたがってウツボの赤ちゃんはひからびてだんだん小さくなっていきました。赤ん坊が死んでから15日ばかりになるのに、まだ1度も雨がふりません。オーブンのように焼けた砂浜と、毎日照りつける太陽の熱で、空気はかわききっています。だから、腐らないで、とうとうミイラになってしまいました。
 いつものように私は岩の上に麦をまいてやりました。子ザル達がすぐ集まって麦を食べ始めました。そのうちにウツボがやって来ました。子ザル達はあわててにげました。ウツボは、足もとにミイラの我が子を置くと、ゆっくりと麦を食べ始めました。
 私はすぐ前の岩の上にまた麦をまいてやりました。それを見つけたウツボは、またやって来ました。まかれた麦の真中にミイラの赤ちゃんをおくと、右足でしっかりとおさえて麦を拾い始めました。私がすぐ近くにいるので、取られるのではないかと心配しているのでしょう。私がもっと近づくと、ミイラを抱いて逃げました。
 ウツボはどんな気持ちで、何を考えているのでしょうか。私にはわかりませんが、毎日、毎日、ミイラの赤ん坊を大事に抱いて自分の側から離さないその姿に、私は涙があふれて来るのです。
 日照りはそれからも続き、とうとう田んぼの稲は立ったまま枯れてしまいました。農家の人々は、うらめしそうに、毎日空を見上げていますが、雨はひとしずくも降りません。

サル社会の愛情/死児をいだいて 昭和33年7月26日
死児をいだいて 昭和33年7月26日


死児を守る

 死んだ子を抱いて食べ物を探して歩かなければならないウツボのために、彼女の一番好きなピーナッツを持って行ってやろうとしているところへ、1通の手紙がとどきました。
 「この前の新聞でウツボの悲しい物語を読んで泣きました。わたしも最近可愛がっていた猫が死んだところです。ウツボさんの悲しい気持ちがよくわかります。どうぞウツボさんの好きなものを買ってあげてください。」
とお金が同封してありました。
 私は早速麦10キロとピーナッツ少々を持って島に渡って行きました。
 麦をまいてやりましたが、ウツボはちらっと見ただけで食べようともしません。私の持っているピーナッツの方にばかり気をつけています。私のそばに飛んで来て2本足で立ってピーナッツをねだります。片方の手には、しっかりとミイラの赤ん坊を持っています。与えるピーナッツを次々とほほ袋の中になげこみ、ほほ袋はいっぱいになりました。
 小さくしなびた赤ん坊は、もうどちらが頭かお尻かわからないほどでした。上体は頭と両手が3本の枝のように開いていて、下半身は2本の根のように見えます。すっかりひからびてしまって、ちょっと見ると木ぎれを持っているようです。しかし、ウツボは赤ん坊をさかさまに抱くことはありません。いつも頭の方を上にして持っています。
 でも、わずかしか残っていない毛を、1本1本ていねいによりわけては、ときどき何か口に持っていって、毛の手入れを始めました。まるで生きている子にするようです。
 赤ん坊が死んでもう35日もたちました。相変わらず暑い日でした。ウツボはミイラを抱いて谷間の湧水を飲んでいました。岩と岩の間から湧き出ている冷たい泉です。すぐ前は砂浜ですが、その上に枝ぶりの良いハマヒサカキが茂り背後は深い谷なので、サル達には格好の水のみ場です。
 冷たい水をたっぷりと飲むと、ウツボは泉のそばの林の中にミイラを置いて、ひとりで餌を取りに出て来ました。そのうちに、どこにいったのか姿が見えなくなりました。私はミイラのようすを見ようと思って林の方に歩きかけたときです。
 「ギャー。」
と、鋭い叫び声をあげたウツボ。その声を聞きつけて群れの一ボス、二ボス、三ボスが、私をとり囲みました。その間にウツボは愛児のミイラを抱いて、わめきながら谷間に姿を消しました。
 「子どもさらいがきた。」とでも言ったのでしょうか。3頭のボスはなおもしつこく私に攻撃してきます。私は油断なく注意を払いながら1歩1歩あとずさりをしました。ボス達は動作がすばやく、強い犬歯を持っています。「わが一族に危害を加えるものは、たとえ毎日餌を持って来てくれる人間でも容赦はしないぞ。」
と、言いたげなボス達の表情、ウツボが赤ん坊をうまく抱いて逃げると、彼等も私のまわりから立ち去りました。



あわれなお母さんザル

 赤ん坊が死んで50日たちました。ミイラは、いつの間にか半分にちぎれてしまいました。それでもまだ大切そうに抱いています。
 もっともこの頃では、自分だけで餌を取りに来ることが多くなりました。山のどこかに隠してくるのでしょう。
 今日も餌場に現れたときには、ミイラを抱いていませんでした。ウツボのすぐ近くでイモという名のメスザルが餌を食べていました。そこへ三ボスのモボがやって来ました。
 イモは、モボより位が下なので、餌場をゆずるのが、サルの社会のきまりです。でもイモは、そこを逃げませんでした。モボはおこって「ガッガッガ」と攻撃を始めました。イモは「ギャーギャー」反抗しました。娘イモの急を聞きつけてお母さんのエバが飛んできました。二ボスのアカキンも駆けつけ、そばにいたウツボもそのけんかにまきこまれ、しばらく追ったり追われたり、そのうち一ボスのカミナリが出て、けんかもおさまりました。
 ウツボは、このけんか騒ぎで、忘れていた子どもを思い出したのでしょう。あちこち探しまわっています。きっと、どこに置いたのか忘れたのでしょう。
 岩の間をまわり、森の中にはいったり、また砂浜へ、餌を取ることも忘れて歩きまわっています。夕ぐれ近くになりました。仲間のさる達は、ねぐらを求めて次々に森の中へ去って行き、だれもいなくなりました。それでもウツボはまだあちらこちらと、歩きまわっています。
 砂浜に山のかげが深くなりました。とうとうあきらめたのでしょう。トボトボと帰っていきました。
 私は、サルが帰ったあと島に住む猟師の磯崎さんとミイラを探して歩きました。林の中の大きな木の根もとにありました。ここなら大丈夫と思って置いたのでしょうが.....。磯崎さんは、それをウツボのよく座る大将岩の上に置いてやりました。
 次の朝、私は早くに島に渡ってサルの出て来るのをオオドマリの砂浜で待っていました。しばらくすると、ウツボが先頭になって山からおりて来ました。ウツボは砂浜を横ぎっていつもよく一ボスと座る大将岩に近づきました。そこでミイラの愛児を見つけると、大あわてで岩に飛び上がり、右手でしっかりとミイラをつかむと、あたりを見まわしました。何を思ったか、そのまま森の中に消えました。
 ほかのサルの赤ちゃんは、すくすくと大きくなるのに、ウツボの赤ちゃんは、ちぎれてだんだん小さくなっていきました。それでも離しません。急ぐ時は口にくわえて走ります。ときどき毛をつくろってやったり、まるで生きている我が子にするようです。死んだ子と2ヵ月も生活をともにしました。
 次号には乳ガンの母ザルを見送る子ザルの話をいたします。



サル社会の愛情/三戸サツエ
三戸サツエ

大正3年広島県に生まれる。広島市私立安田高等女学校卒。結婚後、昭和9年北朝鮮にわたり小学校教員。昭和16年夫と死別。昭和19年1男2女をかかえ中国大連市小学校勤務。昭和22年引き揚げ、宮崎県県南を中心に小中学校教員。昭和45年退職。京都大学霊長類研究所幸島施設研究員の非常勤講師。昭和59年同所退職、現在に至る。

著書:「幸島のサル」「ボスザルへの道」(ポプラ社)「サルとわたし」「野生の王国」(講談社)「私の孫は100匹のサル」(学研)「夫からの贈り物」(鉱脈社)(写真★)





『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び10〜13ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
posted by みやざきの自然 at 20:35| こうしま | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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