2008年08月22日

Vol.01 22-23 サル社会に学ぶ 自然の中で

三戸サツエ

 子どもの頃の思い出を語るオトナ達は、きまったように、仲間達と共に山野をかけめぐり、海や川で泳ぎ、エビやサザエ、アワビ等を取り木の実や芽を探し、小鳥や小動物を友とし、群れて採取に出かけた少年少女時代を楽しく語る。そこには、みんなのめんどうを見るボスがいて、仲間の間にきまりや秩序があった。
 それは、あたかもサルの集団を見るようでもあり、また、狩猟採集していた初期の人類の生活様式を想起させる。
 大きな子の親は、
 「小さな子にけがをさせないように、よく気をつけるんだよ。」と言い、小さな子の親は、
 「兄ちゃん達の言うことをよく聞くんだよ。」
 と、さとし安心して年上の子にまかしたものである。このようにして、子ども達は自力で生きるもろもろの能力を身につけた。
 これは戦後の荒廃した日本から今日の繁栄を築く原動力となったのではないでしょうか。
 河合雅男著、「子どもと自然」の書きだしに次のような文章がある。


河合雅男著 「こどもと自然」 人類の誕生と文明の発達

 人間は幸福を求める動物である。猫や犬も快適な環境を求めはするが、積極的に幸福を追求する行動をとることはない。長大な生物の進化史の中で営々として作られた生態系の、いわば予定調和のような均衡系の中で、すべての生物はあるがままの姿で暮らしているのである。もちろん、そこには見えない競争があり、ときには血みどろの闘争もある。食うものと食われるものとのはげしい争いの関係が、生物の世界の根底にはある。しかし一方、棲み分けという平和共存の方策も、その中から生み出され、生物世界を構築する原理として機能している。
 人間はいつごろから、積極的に幸福を追求しようとし始めたのか。それは長い人類史の中で、おそらくごく最近のことではないだろうか。人類がいつこの地球上に誕生したかは、定かでない。化石人類学や分子進化学などの最近の知見によれば、たぶん500〜600万年前に高等猿類から分かれ、ヒトとしての道を歩み始めたものと考えられる。初期人類の生活様式は狩猟採集であったが、約1万2000年前に農業と牧畜という新しい生業が始まった。人類の歴史をかりに500万年とするならば、人類はそのうち約499万年は狩猟採集の生活を送ってきたのであって、農業と牧畜の発明はごく最近始まったことにすぎない。
 農業と牧畜の発明は、人類史の中でも際立った大きな革命的事件であった。このことによって、人類は自然を自らの手で改変することを覚え、人為による生産手段を獲得し、やがては自然を征服し管理する方向に向かったのである。そして、文明の発達によって、幸福を手に入れることができると信ずるようになった。
 科学的思考および自然科学という学問を手に入れることにより、人類は物質文明を発達させていったが、いつしか幸福は物質的に豊かになることによって獲得できる、という錯覚に陥ってしまった。わが国においても、第二次大戦後の惨憺たる疲弊を克服し、高度経済成長の後の科学技術の進展による物質文明の発達は、目を見張らされるばかりである。戦後の苦境の中で、誰がこの豊かな状況を予想しえたであろうか。
 われわれを取り巻く環境は、あっというまに人工化し、急速に自然が破壊されてしまった。昭和30年頃までは、東京都の23区でもトンボやカエル、バッタなどの野性小動物がけっこうたくさんすんでいた。ところが、30年から40年までの間に、それらはすっかり姿を消し、農村でも農薬の大量使用によって急速に動物たちは消滅してしまった。戦後生まれの人たちも、しばらくの間はセミやトンボ捕りに興じ、川遊びや木登りに夢中になって、自然とたわむれた記憶を持っている。しかしそうした幼少年時代を支えていた環境が一挙に崩壊し、子どもたちは自然とのつきあいを断ちきられてしまうことになった。
 一昔前は、道路に子どもたちが群れていた。今は自動車が道路を占領し、子どもたちはそこからすっかり駆逐されて、家の中に閉じこめられてしまった。多くの子どもは小さな家で飼育され、学校では厳しい管理の下に画一的な教育で締めつけられている。そして、テレビやオーディオセット、ファミコンなどの電子器具に埋もれ、無機的な世界の中で密室文化に耽っている。まるでクモの巣にかかった蝶が、もがきながら体液を吸いとられていくように、子どもたちは過剰な情報の網の目の中で、もがきながら精神を衰弱させていく。

 幸福をもとめる人類が、いまの子どもに、はたして幸を与えているでしょうか?
いまいちど考えてみよう。
森の中の子ども
 いまの母親は、遊びに行く子どもに、
「小さい子どもは連れていかないように、けがをしたら、おまえの責任になるから」
 と、言う。これは現在の社会状況の中から生まれた、責任回避、自己中心的な思想の産物ではないでしょうか。
 密室文化の中で孤独になった子どもを、いまいちど広い自然の中に飛び出させ、仲間と共に遊び、学び、考え、自力で生活できる能力を育てたいと思う。そうした場所が失われつつある現在、幸いここには山あり海あり、森もある。その中でまだ小動物たちが歓喜の合唱をつづけている。この一帯を次の世代までも残さなければならない。我々の世代でもうこれ以上自然を失ってはならない。21世紀をになう子どもたちのためにも........。

河合雅男 河合雅雄 かわいまさを

1924年兵庫県に生まれる
1952年京都大学理学部卒業
専攻:生態学・人類学
現在:京都大学名誉教授・(財)日本モンキーセンター所長・愛知大学教授

著書:「ニホンザルの生態」(河出書房新社)
「ゴリラ探検記」(講談社学術文庫)
「森林がサルを生んだ」(平凡社)
「学問の冒険」(佼成出版社)
「少年動物誌」(福音館書店)ほか






『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び22〜23ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
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Vol.01 18-20 幸島とそのサルたちの価値

サル学研究発祥の地

岩本俊孝


幸島とそのサルたちの価値


餌づけの成功

 幸島は昭和9年に、国の特別天然記念物に指定されています。その自然の価値は、第一に数々の亜熱帯的要素を含んだその植物相の豊富さにあります。宮崎の温暖な気候条件下にあって、林内にはアコウやビロウ、バクチノキのような亜熱帯性の樹木が生い茂り、地面にはさまざまなランやシダ類がそだっています。幸島を訪れたら一歩林内に足を踏み入れていただくと、その自然植生のすばらしさが分かると思います。
 幸島のもう一つの重要な価値は、もちろんニホンザルの群れです。幸島の群れは昭和23年から京都大学の今西錦司博士を中心とするグループによって研究が始められ昭和27年8月餌づけに成功しました。これは、研究のための餌づけが行われた世界で初めての試みでした。この餌づけにより、サルが近くで観察できるようになり、その複雑な社会の仕組みが次第に明らかにされて行きました。その意味で、幸島は世界の霊長類学の発祥地であります。多くの外国の研究者が一度は幸島を訪れてみたいと言うのは、幸島のサルの文化的行動のせいばかりでなく、サル学の発祥の地を一度見てみたいと思っているからなのです。


文化的行動

 文化的行動は、餌づけが成功した翌年、昭和28年の9月に初めて観察されました。当時1歳半くらいであったF111という雌の子ザルが、砂浜で与えられたサツマイモを小川までもっていき、その表面についた砂を洗い落として食べているのが観察されたのです。もし、この新しい食べ方がこの個体の個人的なクセだけで終わっていたならば、幸島のサルは「文化ザル」という名誉ある称号を与えられなかったでしょう。しかし、この新しい行動はその後遊び仲間であるオスの子どもや、さらにはこの雌の母親へと伝播することになります。そして、昭和31年までには30頭の個体中11頭までがこの行動を身につけてしまったのです。さらに、昭和33年以降、この行動の伝わり方に大きな変化が現れました。今までは、遊び仲間とか、子から母親へという方向に伝わっていたのに、この年を境に母親から子へとこの新しい行動が伝わって行きはじめたのです。すなわち、新しい行動が最初は伝播していたのに、しばらくすると伝承へと変わっていったのです。これは、大変重要な点です。なぜなら私たち人間の文化の伝わり方とそっくりだからです。人間の文化も最初は確かに一人がはじめ、まわりに伝播した後、それが世代を通じて伝承されることになります。これが幸島の芋洗い行動が文化的行動であると考えられる由縁なのです。その他の文化的行動に、麦選別行動(砂金堀り行動ともいう)、おちょうだい行動、いま問題になっている水泳行動などがありますが、どの行動もいま述べた芋洗い行動と同じ様な経路を通って伝播・伝承することが確かめられています。
 もちろんこういう研究結果は、世界で初めての報告でありました。すなわち、動物に、本能によらない新しい生活様式の発明と、世代を越えたその伝承が存在するということは、どの国の生物学者も考えたことはありませんでした。そのため、この観察結果は最初多くの反対に出会うことになります。しかし、その後の動物行動学の進展や、日本の研究者の熱心な研究発表により、次第にその正しさが認められ、現在の動物行動学の分野では当然の説として受け入れられるようになりました。現在、この分野の教科書では必ず幸島のサルの研究例が引用されるようになっています。
 さらに、この幸島のサルたちの文化的行動は、外国のテレビ科学番組でも何回か紹介され、世界中の人たちが見ています。いまや、幸島は単に宮崎の幸島ではなく、世界の幸島になっているのです。


幸島のサルの系図

 幸島のサルの貴重さは、その文化的行動だけにあるのではありません。幸島のニホンザルは、すでに5世代40年にわたって、全てのサルの経歴が調べられてきています。これ程までに長期にわたって、群れの個体の歴史が残っているサルの群れは世界中どこをみてもありません。母系制度を基本とする霊長類の社会の成立ちを調べるうえに、極めて貴重な資料を幸島のサルは提供し続けているのです。この成果は、私たちヒトの社会の起源を知る上でも大きな助けとなるでしょう。
 幸島のサルには、一貫した命名法がとられてきています。すなわち、雌は植物の名前、雄は動物の名前というように代々命名されてきているのです。また、同じ母親からの子どもには必ず頭文字がつけられています。例えば、ウメというメスの産んだ子は、上からメバル、メギ、メダカ、メロン、メジナというようになっています。ひとたび名前を聞けば、それが雄か雌か、またどの雌の子どもかわかるようになっているのです。幸島にいったら一度名前を聞いてみてください。


石波海岸
石波海岸


すぐれた自然教育の場

 幸島は、すぐれた自然教育の場でもあります。陸から孤立している島であるため、人手が入りにくく自然環境がよく保たれています。また適度に陸から近いため、一般の人も比較的容易に訪れることができます。同時に、そこに棲むサルの生態や社会を、自然状態に非常に近い形で、また安全に(サルからおそわれたりせずに)観察することができます。普通の野猿公園では、絶対にこうはいきません。
 しかし、そのような場が保たれるには、人もそれなりのルールを守る必要があります。重要なことは、サルの生活をできるだけ邪魔しないことです。幸島のサルは、朝8時頃に一度必ずオオドマリという浜に出てきます。そこで10時くらいまでゆっくり毛づくろいをして過ごした後、おなかを満たすための遊動にでかけ、午後はずっと採食を続けます。彼らにも彼らなりの生活のリズムがあるのです。それを壊すと、サルは自分たちの健康や正常な社会を維持するための生活を続けることができなくなります。
 幸島のサルは、自然生活を基本にしています。観光客が餌を与えることは絶対に控えてください。また、幸島にはできるだけ午前中にいくことにしましょう。サルはある時間をはずすと見れないということを理解することが、実は真に自然の動物としてのサルを知ることにつながるのです。


幸島のサルの管理

 幸島の所有者は串間市です。従って、行政的には串間市が管理をしていることになっています。しかし昔から市木村民は神様の使者としてサルと島を大切に守り、昭和6年から天然記念物運動を始め、昭和9年12月やっと指定されました。当時市木村で餌を与え保護して来ましたが、戦時中中止されました。戦後行政の手でサル捕獲が行われ村民が困っている所へ京都大学の霊長類研究グループがやって来、研究が始まりました。
 長い研究上の歴史から幸島のサルについては、実際には京都大学の霊長類研究所の出先機関である幸島観察所が面倒をみているわけです。幸島のサルについては長い研究の歴史があります。従って、どのくらいの餌をどのように与えれば、群れのサルの健康状態を壊さずにある個体数を維持できるかという指針があります。それが、現在のほぼ100頭という毎年安定した個体数を生みだしているのです。
 ここで観光客が増えて勝手に餌を与え始めますといくつかの重要な問題が生じます。
 第1に、むやみな餌の供与が個体数管理を不可能にし、個体数の増加を引き起こします。
 第2に、これまでは観光客の皆さんに餌をもっていかないようにとお願いしていたため、サルとヒトとのトラブルが非常に少なく両者のよい関係が出来上がってきていたのに、それが壊れてしまいます。いわば、サルのヒトずれが起こってしまい、日本中あちこちにある野猿公園のサルと変わらなくなってしまいます。そして、しまいにはサルを自然のものとして観察したり理解したりできなくなるでしょう。
 第3に、勝手な餌づけが行われると、群れの一部あるいはかなりの部分が海岸近くから離れなくなったり、あるいはボートの音を聞いたら遊動をやめてしまって海岸に駈け戻ったりすることになります。その結果、群れとしてのまとまりが保てなくなります。まとまりが希薄なニホンザル社会は、大変弱いものです。分裂が起こって、消滅することさえあるのです。さらに、餌を十分に得るための遊動を頻繁に阻害されることになれば、サルの健康状態にも影響が出始めるでしょう。
 「水泳ショー」も大きな問題を含んでいます。
 第1に、天然記念物の一部であるニホンザルの生活を、公的な機関でない一部の業者が、営利を目的に改変してしまうという法的な問題がまずあります。
 第2に、寒い時期に無理やりに水に入らせると、抵抗力の弱くなっている個体を容易に死なせることになります。一昨年の冬の高い死亡率はそれが原因であったのではないかと考えられれています。
岩本俊孝  第3に、出産して間もない雌が、新生児を顧みず海に飛び込むことによって、子が溺死してしまう可能性があります。
 以上のように、管理を伴わない無軌道な餌づけは、幸島の学問上の価値を失わせ、幸島のサルの社会を破壊してしまうばかりか、宮崎県民の文化程度までも疑わせる結果を招くことになるでしょう。


岩本俊孝

昭和23年1月福岡に生まれる。45年九州大学理学部卒業。50年九州大学大学院卒業。以後宮崎大学教育学部に勤務。現在、宮崎大学教育学部助教授。幸島ニホンザル、アフリカヒヒの生態、アカウミガメの生態調査に携わる。
現住所:宮崎市神宮西1−59



こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING






『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び18〜20ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
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Vol.01 17-17 幸島のトビ

鈴木素直

 幸島のトビ  幸島は陸に近く、島全体が森林のため、山野性、水辺性の鳥類が生息している。
 初回はトビに登場してもらう。
 トビは石波海岸でもよく観察できるが、幸島のサル達に関係があるのだろうか。それについては宮崎大学の岩本先生の話がとても印象的だった。
 「トビの群を見ながら、ああ今日はサル達が島のどの辺りにいるなと見当をつけている」というわけである。
 なぜそんな推測ができるのか。岩本先生は両者の関係を深く調べられたわけではなく、長い観察経験の中で体得された直感なのかもしれない。それにしても、先生の研究者としての態度、観察眼の的確さをよく示していると思う。
 三戸先生も言われたことがある。「そういえば、死んだ赤ん坊ザルを抱きつづけていた母ザルが、ちょっと岩の上にそれを置いた隙に、トビが舞い降りてひっさらったことがある。」
 トビは帆翔(はんしょう)(はばたかずに気流にのってとぶ)しながら地上、水上をたえずたんさくしている。サル達のいる所に食い残しとか餌になるものがあることを知っているわけで、お互いに共生関係を保持しているといえる。
 これは幸島だけに見られることではなく、トビの群の帆翔の理由の一つには、餌探しがあり、他の動物・人間の動きや場所の中に餌の存在を確認できることを知っている。
 トビを見つけたら、是非人間を含めた自然を視つめるためにまわりをよく観察してください。それは生物の多様性を多様のままに理解する機会になるし、新しい生物科学の方法を育てることに結びつくだろう。
 宮崎県内ではトンビとも呼ばれ、鳶と書く。英語名はBlack Kite。全体が黒褐色でたこのように帆翔するからだろう。
 ワシタカ科のれっきとした一員なのだが、ほかのワシ・タカと違った習性をもつ。格好いい「狩り」をすることは少なく、食性は小哺乳類、鳥類、両生類、魚類、昆虫類などだが、弱ったり死んだものを食べる。
 昔は街の、今は河川・海岸の「自然界の掃除屋さん」ともいわれたが、尊い存在であり、リサイクル様式の一例といえる。
 トビの存在価値について、柳田国男はすでに「鳶の別れ」(大正15年)でふれており「進歩と名づけられる人類生存方法の変更」に疑問を出している。
 幸島のサル文化を考えると共に、トビ文化にも思いを広げるため、石波海岸でじっくり観察されることをおすすめする。
(環境庁自然公園指導員)

 幸島のトビ


鈴木素直 すずきすなお 鈴木素直 すずきすなお

1930年台湾に生まれる。1934年故郷宮崎県に移り育つ。1952年宮崎大学学芸学部卒業。宮崎県立盲学校を振り出しに、木花小、住吉小、本庄小、富田中、大久保小、瓜生野小で教鞭をとり、1986年退職。


現在:日本野鳥の会評議員。
   環境庁自然公園指導員。

著書:詩集「夏日」、「瑛九秒」、「野鳥とみやざき」、「野鳥はともだち」

現住所:宮崎市西高松町1の18





『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び17ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
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Vol.01 14-16 幸島にあそぶ /有明小学校



幸島にあそぶ /有明小学校 若者ザルの旅と帰ってからの群れへの入り方
久保田貴史 6年


 11月18日、PTAの講演会で、幸島のサルの研究を長年なさっている、三戸サツエ先生が、「わたしの孫は100ぴきのサル」という題で講演なさいました。ぼくは、その中で「若者ザルの旅と帰ってからの群れへの入り方」がとてもいんしょうにのこりました。
 それは、サルが、7歳ごろになったら、群れをはなれて、海をおよいで、山などに行って、修行をするそうです。ぼくは、武者修行みたいで、とても、おもしろそうだと思いました。でもときどき、方こうをまちがえて、町の方へ行って、けいさつにつかまって、島にもどされるというサルもいるそうです。そして、何年か、修行をした若者ザルは、島にもどりますが、すぐ群れに入るのではなく、群れの外の方で、群れを守るそうです。群れに入るまでは、こどものおもりをしたり、メスのサルの毛をつくろったり、いろいろと、がまんにがまんを重ねて、やっと群れに入るそうです。そして、男のサルはそれぞれ、階級があり、群れに入ると、群れに入っている男のサルの後の階級になります。そして、上のサルが死んだら、1階級上がります。それをくり返してやっと一番上のサルになるそうです。その一番上のサルになったのは、お母さんが、低い階級だったからがまんすることができるからです。小さいころ上の階級だった若者ザルは、いばるくせがついてしまって、まだ、一番上になったサルがいないそうです。そして、一番上になったサルは、群れの中でけんかがはじまると、初めにかかってきたサルをおさえて、かむそうです。でも、けがをするほどは、かまないそうです。そのほかにも、子ザルのおもりなどをするそうです。そして、年よりになってからは、二番目に一番上をゆずって、だんだんと群れをはなれて、最後は死んでしまうそうです。


幸島にあそぶ /有明小学校 おサルさん三戸先生へ
上野美穂 3年


 幸島のおサルさんは、どうして、山のぼりや高い岩、木のぼりがうまいのですか?
 オスのおサルさんは、母と子のグループにいれてもらえないから、ほかの島や山に、むしゃしゅぎょうとゆうのにいくそうですね。
 そして、むしゃしゅぎょうは、1匹でいくのですか?それとも、なにかのグループでいくのですか?
 三戸先生、あの山みちは、おサルさんたちが、じぶんたちでつくったみちですか?
 あのターザンみたいのもさるがつくった物ですか?
 メスは、こども、どんなばしょでうむのですか?
 三戸先生、わたしは、たいしょういわをたのしみにしていました。
 でも、たいしょういわは、すなでうまっていたので、ざんねんでした。
 でも、すこしみえました。たいしょういわは、そうとうおおきいいわでしたんですね。
 三戸先生、わたしは、おサルさんたちを見学して、おもったことがあります。それは、子ザルや親ザルがけんかをしたりしたら、すぐやめるところがいいなーと思いました。
 三戸先生、わたしは、幸島をわたったところのかいがんのいしがすごくきれいないしだなーと思ったので、10ったぐらい、おばあちゃんと、おじいちゃんのおみやげとして、持ってかえりました。
 わたしは、かえって、ひろったいしのうらに、
「幸島遠足 H2年11月13日」とかきました。そして、おもてには、おサルさんが、にっこりわらっている顔や目をくりくりサルやおもしろい顔をかきました。
 私は、そのおサルさんのかおのかいてあるいしを記念にしました。
 三戸先生、ありがとうございました。


幸島にあそぶ /有明小学校 「幸島のおサルさんへ」
河野 誠 3年


 幸島のおサルさん、えんそくのときおもしろかったです。そして、おサルさん、大きなしまをもってて、いいね。そして、イモをあらったりむぎをあらったりして、それでせいかつしてるんだね。発見や発明をしてリーダーを中心にしてむれをまもって、子どもをそだてて、いきているんだね。まるで、にんげんせいかつみたいだね。そして、リーダーがはなれたなか、リーダーは、むしゃれんしゅうをして、何年かたって、かえってきて、てきとむかっていくんだね。



幸島にあそぶ /有明小学校 幸島に行って
松山智浩 6年


 僕は、行く前早く幸島に行きたいと思いました。まだ1回も幸島に行ったことがないからです。
 自転車の二宮さんがわざわざ自転車を点けんしてくれました。
 行く時、上り坂を止まらないでいこうと思ったけど半分の所までしかいけませんでした。
 おしていたら、しらない中学生が自転車でかるがるいったのですごいなあと思いました。
 幸島でサルに3回とびつかれました。1回目いもをもっていたらいきなりとびかかってきて2回目は、さわったらきました。3回目にらみつけたらとびかかりました。
 浜に帰る時船のエンジンがかからなくて、かかったことはかかったけどすぐやんで3回もくりかえしてよくみたらひでき君がガソリンのせんをつかんでいました。
 そしておりる時ひもをひでき君がとって上げようとしたら船がどんどんはなれていった時もうだめだと思いました。そしておちて、おばさんが手をにぎってやったから下半身だけぬれてひでき君が船をもち上げてくれたような気がしました。
 帰るとき、下り坂を男子がほとんどはだかになっていて、ぼくもなりました。とても気持ちがよかったです。
 三戸先生がいろいろおしえて、どうもありがとうと思います。


幸島にあそぶ /有明小学校 私の孫は100びきのサルを聞いて
中島清か 6年


 私は、三戸先生のお話を聞くまで、「幸島」って聞くとどこか軽べつするような気持ちをもっていました。なぜ、軽べつするような心が生まれてくるのかというと、幸島=サルの国=すごく野蛮な国という発そうがあったからです。でもそれがちがうという事が、三戸先生のお話を聞いてよく分かりました。なぜなら、サルの社会にもある身分の上下を乱したりしないし、子を思う親の気持ちは人間と変わらないからです。
 初代リーダーのかみなり。このリーダーはすごいです。島中をあちこちとびまわり、けんかのちゅうさいをし、他のサルの行いを正したりしているからです。又、仲間もかみなりをそう敬し、失明してもだれも意地悪をせず温かく見守ってあげていました。ふつう、上の者がたおれた時、皆“野心”というものがあるのでそこに、トップのざにつこうとします。しかし、幸島のサルからみれば前に述べた様な事は考えもつかない事だったでしょう。
 もう一つ印象に残った事、それは、赤ちゃんザルをいつまでもだき続ける母親。他のサルからいやがられてもずっとだきつづける母親。すごいなあと思います。


幸島にあそぶ /有明小学校 幸島のサルを説明してくれた三戸先生へ
安村真紀 6年


 “幸島”これで2、3度目行くことになるのかな?
 11月18日の講演会の話で“行きたい”という人が出てきた。学級会でも市木に行くことにする方がいいという人も出てきて市木の幸島に行くことに決定した。
 サイクリング当日!そわそわどきどき、胸が高まった。みんなも同じ気持ちだと思う。
 6の2の親子づれ、道案内や安全対策のためにいろんな父母たちも協力してくれた。出発したのが午前8時20分。有小から中学校へ、中学校から秋山へいろいろ休けいしながら少しずつ少しずつがんばった。長い上り坂があってもみんなでやりぬいた。長い下り坂は気持ちよくて心の中がすっとした感じで三戸先生の家へ行くと、水戸先生はあたたかくむかえ入れてくれたこと。私はとってもいい人だとすぐに分かった。
 サルを見るには午前中に。ということでお弁当を帰ってきてから食べるというようにして三戸先生の家を出た。ついたら三戸先生の話をちょっときいて船に乗って幸島まで行った。
 みたら“かわいい”なんて思ったけどえさを友達がもっていてとびかかってくるのでとってもかわいくないと思ってしまった。そばにくるだけでもこわかった。でも三戸先生の話をきいたり、山に登ったりしているうちに、サルは自然の中で生きてるんだと思ってサルへのこわさがどこかへとんでいって、とってもかわいかった。三戸先生どうもお世話になりました。


幸島にあそぶ /有明小学校



幸島にあそぶ /有明小学校 私の孫は100ぴきのサル
石崎正人 6年


 ぼくは、11月18日、体育館で、三戸サツエ先生が、私の孫は100ぴきと言う話をしてくれて、ひっぴりおばさんがそこらへんにあった食べ物を、おさらといっしょにとっていって、おさらは、げんかんの前において食べ物だけとってにげるのがおもしろかったです。でもおかのサルは、そのまま食べ物だけとってにげるのに、そのサルは、おさらといっしょにとって行って、すこしは、れいぎただしいんだなあと思いました。
 それでサルのおかあさんは、子供を生んで手もかさないでただ生まれた子供だけの力でしがみついているのがたくましいんだなあと思いました。


幸島にあそぶ /有明小学校 三戸先生ありがとう
黒木奈緒 3年


 三戸先生、わたしが一ばんおもしろかったことは、まるで子ザルが人げんみたいに、わざとおこってあそぶことが、人げんとおんなじみたいです。人げんとサルは、三戸先生、おんなじみたいです。
 えさをやるとき、母ザルは、子ザルにわけないでだいじょうぶなのですか。人間ならしんでしまうのにどうしてなのですか。父ザルは、どうして、グループにはいってはいけないのですか。子ザルと、わかれるのはつらくないの。父ザルは、むしゃしゅぎょうにいくのですね。わたしは、とってもすごいとおもいます。
 リーダーのカミナリは、なんさいまでいきたのですか。たぶんほかのサルのなんばいもいきたとおもいます。カミナリがすわっていたいわは、どのくらいあったのですか。グループは、なんこぐらいあったのですか。ねるときってどんなところでねてたのですか。人げんとはちがって、たかいところで、あつまってねてたのでしょう。ごはん、木のみに、いもにむぎ、ピーナツしかたべないのですか。いもをあらっておいしそうにたべていました。まるで、人げんがたべているようでした。ピーナツのからやら、いもをなまでたべるなんて、はがとっても、かたいんですね。サルは、人げんのたべにくいものも、きのぼりも、できるなんてとってもすごいです。森の中はとってもきゅうなさかで、すごいところにすんでいるとおもいました。森からおりてきて、はまにくるサルは、みんなげんきなサルなんですね。三戸先生みたいです。魚をとるということやむぎを洗うことやいもを洗うことなどをみつけるなんて、とってもすごいサルですね。なぜおとなのサルは、あんまりみつけられないのですか。人げんは、おとなのほうがあたまがいいのに、ちがうんですね。サルっておよぎがじょうずなんておもっていませんでした。どのくらいじょうずなのかとおもっていました。どのくらいおよげるんですか。人げんの、ばいなんでしょうね。山は、どのくらいあるのですか。ずいぶんするのですね。こんどきたときは、もっといろんなことをいっぱい、しりたいとおもいます。


幸島にあそぶ /有明小学校 ありがとう。有明小学校の皆さん
三戸サツエ


 平成1年12月、有明小学校から幸島まで、6年1組全員が河野先生に連れられて自転車で見学に来ました。
 幸島のオオドマリでサルを見学し、そのあとサル道をたどって森を歩き、木と語り、山の中でのサルの生活を見、ターザンのようにカズラで遊び、石波の広い砂浜で思いきりたわむれました。そして、また再び自転車で帰っていきました。有明小学校といえば片道30キロはあるでしょう。途中、山あり谷ありの坂道です。
 その峠との敢闘、汗だくだく。12月だというのに遂に上着をぬぎ一人の落伍者もなく無事に帰った知らせを受けたとき、思わずバンザイとさけびました。この困難をやりとげた皆さん。このたくましさは、きっとこれから自力で生きる力の原動力となることでしょう。
 また皆さんのとどけてくれた感想文、わたしの宝物です。
 その翌年の秋、今度は有明小の3年生一同でサルを見学にやって来ました。そのときここに自然保護センターを設立する話を聞いた皆さんが、児童会に提案し、児童会の委員が再び訪れてその内容をしらべ、遂に全校児童でカンパして基金をとどけてくれました。それは10キログラムもありました。
1円〜     4,934円
5円〜     2,550円
10円〜    3,610円
50円〜    350円
100円〜   6,100円
500円〜   1,000円
1,000円〜  2,000円
合計    20,554円


 涙の出るほどうれしゅうございました。この一帯を自然の動物園とし、皆さんが学習したり、遊んだりするお手伝いのできる日を一日も早くと、願ってがんばります。
 ありがとう。ほんとうにありがとう。



『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び14〜16ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
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Vol.01 10-13 サル社会の愛情

三戸サツエ

サルが島ただいま90頭


 宮崎県の日南海岸の一角にある串間市市木石波海岸の沖合い300メートルのところの島に昔からサルが住んでいました。村の人はサル島と言っていますが、この島の名は幸島です。
 幸島は、青く高い空から照りつける強い太陽の光と、南支那海から押し上げてくる黒潮に洗われて、冬も暖かく、バナナ、アコウ、ビロー、マルバアオダモ、ハカマカズラ等の亜熱帯植物が群生し、またイヌビワ、キイチゴ、アケビ、ムベ、野生のミカン、ヤマモモ、サンゴ樹の真赤な実など、四季の果実が豊富に実り、全島冬でも緑濃い照葉樹林におおわれています。まわりの海は、イセエビ、アワビ、ヨメガガサなど数知れない豊かな海の幸に恵まれています。ただいま90頭のニホンザルとウサギやタヌキが住んでいて、その名に示すとおり幸多い自然の動植物園です。
 私はこのサル達と40余年かかわりあってくる中で、サルの社会にも愛したり憎んだりする細やかな感情生活があることを知りました。母ザルが子ザルへ、子ザルが母ザルへ、姉ザルと弟妹ザル、またはリーダーと群れのサル、オスとメスの間に取りかわされる感情の表現がみとめられて私はおどろいてしまいました。
 「死児を抱いてさまよう母ザル」「乳ガンで死期の近づいたことを悟った母ザルが死に場所を求めて群れから離れて行くあとを心配そうについていく子ザルの姿」「年老いて失明した老ボスをみんなで守ってやったこと」など、今でも私の心に焼きついています。その中の死んだわが子を抱いて59日間もさまよったお母さんのお話をいたします。

死児を抱いて


出産

 南国の太陽がギラギラと幸島のオオドマリ湾の砂浜に照りつけている昭和33年7月9日の朝のことです。お山からおりて来た銀毛をしたウツボというお母さんザルは、ヘソの緒を長くひっぱった赤ん坊ザルを抱いて出て来ました。うぶ毛はまだぬれていて黒光をおび、赤い顔をしていました。きっと今朝早く産まれたのでしょう。
 大将岩の上で、しっかりと赤ちゃんを抱いてひとやすみしているウツボは慈母観音さまのように美しい顔でした。一日中赤ちゃんは、お母さんザルの胸にしっかりとつかまり乳を飲んだり、眠ったりしています。
 赤ん坊が生まれて5日目頃から目に見えて元気がなくなってきました。赤味をおびていた顔は蒼(あお)白くなり生気がなくなってきました。それでも赤ん坊は必死にお母さんの胸にしがみついていました。
 もう年で、毛もめっきり白くなっていたウツボは、顔のしわもふえ、お乳もあまり出そうにありません。私はどうか無事に育ってくれるようにと祈りました。
 生まれてから1週間目です。この日はひどく暑い日でした。白い砂浜に反射する熱気は肌に焼きつくように感じました。
 でも、小舟をこぎ出すと涼しい風がほほをなで波もない静かな海は底を泳いでいる魚が手に取るように見えました。私の漕ぐ櫂の音を聞きつけたサル達が、木々の間から顔を出し一斉に「クイ、クイ、クイ」と歓声をあげて迎えてくれました。私は、
 「ウツボの赤ちゃん、どうか元気でいますように。」と祈りながら島にあがり、赤ん坊を抱いたウツボの姿を捜しましたが、どこにもいません。いつもなら群れの真中でいばっているのに.....。
 しばらくして、森の方からウツボは出て来ました。赤ん坊は両手でお母さんの胸をしっかりとつかんでいますが、後足はもうつかむ元気もなくだらりとたれ下がっています。お母さんは、赤ん坊を片手でしっかりと抱きかかえています。4本の手足が十分に使えないお母さんは、山や谷をこすのに、みんなからこんなに遅れてしまったのです。この赤ちゃんは、もうそう長くは生きていられないと私は思いました。おかあさんザルは、それを知っているのでしょうか。

サル社会の愛情/昭和33年8月7日
昭和33年8月7日


赤ん坊ザルの死

 ウツボの赤ちゃんは、とうとう死んでしまいました。お母さんは、死んだことがわからないのかしらん。死体をしっかりと抱いていました。だらりとたれさがっていた手足はそのままかたくなって、頭から足の先まで、伸びきっています。ウツボが歩くと、その死体がひきずられて、砂の上に1本の線を引いていきます。
 高い木に飛びあがるときも、雑木の茂みを走るときも、ウツボは片手しか使えません。元気な赤ちゃんザルは、生まれるとすぐ両手でしっかりとお母さんの胸につかまるのでお母さんザルは、4つの手足を自由に使って行動ができるのです。でもウツボは死んだ子をだいているので、片手で木から木へ渡って行きます。みんなについて行くのにさぞつかれることでしょう。その姿があわれでなりません。
 日がたつにしたがってウツボの赤ちゃんはひからびてだんだん小さくなっていきました。赤ん坊が死んでから15日ばかりになるのに、まだ1度も雨がふりません。オーブンのように焼けた砂浜と、毎日照りつける太陽の熱で、空気はかわききっています。だから、腐らないで、とうとうミイラになってしまいました。
 いつものように私は岩の上に麦をまいてやりました。子ザル達がすぐ集まって麦を食べ始めました。そのうちにウツボがやって来ました。子ザル達はあわててにげました。ウツボは、足もとにミイラの我が子を置くと、ゆっくりと麦を食べ始めました。
 私はすぐ前の岩の上にまた麦をまいてやりました。それを見つけたウツボは、またやって来ました。まかれた麦の真中にミイラの赤ちゃんをおくと、右足でしっかりとおさえて麦を拾い始めました。私がすぐ近くにいるので、取られるのではないかと心配しているのでしょう。私がもっと近づくと、ミイラを抱いて逃げました。
 ウツボはどんな気持ちで、何を考えているのでしょうか。私にはわかりませんが、毎日、毎日、ミイラの赤ん坊を大事に抱いて自分の側から離さないその姿に、私は涙があふれて来るのです。
 日照りはそれからも続き、とうとう田んぼの稲は立ったまま枯れてしまいました。農家の人々は、うらめしそうに、毎日空を見上げていますが、雨はひとしずくも降りません。

サル社会の愛情/死児をいだいて 昭和33年7月26日
死児をいだいて 昭和33年7月26日


死児を守る

 死んだ子を抱いて食べ物を探して歩かなければならないウツボのために、彼女の一番好きなピーナッツを持って行ってやろうとしているところへ、1通の手紙がとどきました。
 「この前の新聞でウツボの悲しい物語を読んで泣きました。わたしも最近可愛がっていた猫が死んだところです。ウツボさんの悲しい気持ちがよくわかります。どうぞウツボさんの好きなものを買ってあげてください。」
とお金が同封してありました。
 私は早速麦10キロとピーナッツ少々を持って島に渡って行きました。
 麦をまいてやりましたが、ウツボはちらっと見ただけで食べようともしません。私の持っているピーナッツの方にばかり気をつけています。私のそばに飛んで来て2本足で立ってピーナッツをねだります。片方の手には、しっかりとミイラの赤ん坊を持っています。与えるピーナッツを次々とほほ袋の中になげこみ、ほほ袋はいっぱいになりました。
 小さくしなびた赤ん坊は、もうどちらが頭かお尻かわからないほどでした。上体は頭と両手が3本の枝のように開いていて、下半身は2本の根のように見えます。すっかりひからびてしまって、ちょっと見ると木ぎれを持っているようです。しかし、ウツボは赤ん坊をさかさまに抱くことはありません。いつも頭の方を上にして持っています。
 でも、わずかしか残っていない毛を、1本1本ていねいによりわけては、ときどき何か口に持っていって、毛の手入れを始めました。まるで生きている子にするようです。
 赤ん坊が死んでもう35日もたちました。相変わらず暑い日でした。ウツボはミイラを抱いて谷間の湧水を飲んでいました。岩と岩の間から湧き出ている冷たい泉です。すぐ前は砂浜ですが、その上に枝ぶりの良いハマヒサカキが茂り背後は深い谷なので、サル達には格好の水のみ場です。
 冷たい水をたっぷりと飲むと、ウツボは泉のそばの林の中にミイラを置いて、ひとりで餌を取りに出て来ました。そのうちに、どこにいったのか姿が見えなくなりました。私はミイラのようすを見ようと思って林の方に歩きかけたときです。
 「ギャー。」
と、鋭い叫び声をあげたウツボ。その声を聞きつけて群れの一ボス、二ボス、三ボスが、私をとり囲みました。その間にウツボは愛児のミイラを抱いて、わめきながら谷間に姿を消しました。
 「子どもさらいがきた。」とでも言ったのでしょうか。3頭のボスはなおもしつこく私に攻撃してきます。私は油断なく注意を払いながら1歩1歩あとずさりをしました。ボス達は動作がすばやく、強い犬歯を持っています。「わが一族に危害を加えるものは、たとえ毎日餌を持って来てくれる人間でも容赦はしないぞ。」
と、言いたげなボス達の表情、ウツボが赤ん坊をうまく抱いて逃げると、彼等も私のまわりから立ち去りました。



あわれなお母さんザル

 赤ん坊が死んで50日たちました。ミイラは、いつの間にか半分にちぎれてしまいました。それでもまだ大切そうに抱いています。
 もっともこの頃では、自分だけで餌を取りに来ることが多くなりました。山のどこかに隠してくるのでしょう。
 今日も餌場に現れたときには、ミイラを抱いていませんでした。ウツボのすぐ近くでイモという名のメスザルが餌を食べていました。そこへ三ボスのモボがやって来ました。
 イモは、モボより位が下なので、餌場をゆずるのが、サルの社会のきまりです。でもイモは、そこを逃げませんでした。モボはおこって「ガッガッガ」と攻撃を始めました。イモは「ギャーギャー」反抗しました。娘イモの急を聞きつけてお母さんのエバが飛んできました。二ボスのアカキンも駆けつけ、そばにいたウツボもそのけんかにまきこまれ、しばらく追ったり追われたり、そのうち一ボスのカミナリが出て、けんかもおさまりました。
 ウツボは、このけんか騒ぎで、忘れていた子どもを思い出したのでしょう。あちこち探しまわっています。きっと、どこに置いたのか忘れたのでしょう。
 岩の間をまわり、森の中にはいったり、また砂浜へ、餌を取ることも忘れて歩きまわっています。夕ぐれ近くになりました。仲間のさる達は、ねぐらを求めて次々に森の中へ去って行き、だれもいなくなりました。それでもウツボはまだあちらこちらと、歩きまわっています。
 砂浜に山のかげが深くなりました。とうとうあきらめたのでしょう。トボトボと帰っていきました。
 私は、サルが帰ったあと島に住む猟師の磯崎さんとミイラを探して歩きました。林の中の大きな木の根もとにありました。ここなら大丈夫と思って置いたのでしょうが.....。磯崎さんは、それをウツボのよく座る大将岩の上に置いてやりました。
 次の朝、私は早くに島に渡ってサルの出て来るのをオオドマリの砂浜で待っていました。しばらくすると、ウツボが先頭になって山からおりて来ました。ウツボは砂浜を横ぎっていつもよく一ボスと座る大将岩に近づきました。そこでミイラの愛児を見つけると、大あわてで岩に飛び上がり、右手でしっかりとミイラをつかむと、あたりを見まわしました。何を思ったか、そのまま森の中に消えました。
 ほかのサルの赤ちゃんは、すくすくと大きくなるのに、ウツボの赤ちゃんは、ちぎれてだんだん小さくなっていきました。それでも離しません。急ぐ時は口にくわえて走ります。ときどき毛をつくろってやったり、まるで生きている我が子にするようです。死んだ子と2ヵ月も生活をともにしました。
 次号には乳ガンの母ザルを見送る子ザルの話をいたします。



サル社会の愛情/三戸サツエ
三戸サツエ

大正3年広島県に生まれる。広島市私立安田高等女学校卒。結婚後、昭和9年北朝鮮にわたり小学校教員。昭和16年夫と死別。昭和19年1男2女をかかえ中国大連市小学校勤務。昭和22年引き揚げ、宮崎県県南を中心に小中学校教員。昭和45年退職。京都大学霊長類研究所幸島施設研究員の非常勤講師。昭和59年同所退職、現在に至る。

著書:「幸島のサル」「ボスザルへの道」(ポプラ社)「サルとわたし」「野生の王国」(講談社)「私の孫は100匹のサル」(学研)「夫からの贈り物」(鉱脈社)(写真★)





『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び10〜13ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
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Vol.01 06-09 ニホンザルの社会

 昔からサルにまつわる伝説や物語はたくさんありましたが、サルを見たり、彼等の社会を知ることは、ほとんどありませんでした。サルと人は互いに住み分け、サル社会は深いやみの中につつまれていました。
 1949年の暮、京都大学今西錦司教授と当時京都大学の学生であった伊谷純一郎、川村俊蔵さん達が、都井岬の野生馬の調査の帰途、サルの住む幸島をおとずれサル社会の調査にいどむ計画が立てられました。
 1950年の5月、今西教授、伊谷、川村さん達が、研究に必要な道具をリュックにつめてふたたび幸島にやってきました。ところが、それは猟師たちに幸島のサルたちが追われ、いためつけられた5ヶ月あとであったため、一日中、山の中を歩いてもサルの姿は見あたりませんでした。ただ木の芽をつんだ
あとや糞を見つけてサルがいることを確認して帰るだけでした。
 こうした、むだ足を何度もふみ、根気よくサル達の出現を待つ研究者の前に、やっと姿を現わすようになるまで2、3年を要しました。
 そのような雨風冬夏をいとわぬ情熱的な生態研究が続けられ、これまで知られざるサルの社会の謎が徐々に解けていきました。そのときの研究者の感激は今も私の胸に脈々と鼓動を打っています。説明を聞きながらいただいた写真は色あせてはいますが、私の宝物として、スクラップブックの中にあります。
 今は歴史上のサルとしてここに紹介します。

三戸サツエ

写真は1952(昭和27)年11月中旬より1953(昭和28)年1月下旬までの研究の一こま。
撮影・説明は京都大学伊谷純一郎氏。



ニホンザルの社会 1 この雄は群れのなかでいちばんつよいオスです。

 幸島の群れはたったひとつで、みんなこのオスに従っています。何か悪い敵が来たりしないか、群れのサルたちが安全であるか、たえずこのサルは気を配っています。この写真も高い岩の上から、群れの様子を見守っているところです。非常にたくましく、大きなサルで右足のかかとには古いワナ傷があり、寒い日など片足をひきずることがあります。


ニホンザルの社会 2

群れの中で第3位を占めているオスです。

 この写真は動いてしまいましたが、それはカメラのすぐ前(1m半)までおそいかかって来たためです。まだ若若しく、群れの中でいちばんスマートなオスです。  群れのオスの中で、第2位以下のオスは通常あぶれオスといわれ、群れの周辺部を行動しています。そして群れが何か危険にあったりしたときには必ずこのようなサルの中からどれか1匹が出て来て、警戒にあたったり、敵に抵抗したりします。群れが行列を作って行進してゆくときはこのようなサルが先頭のつゆはらいをしたり、しんがりをつとめたりしています。


ニホンザルの社会 3  これは群れの中で第5番目の位置を占めるオスで、おそらく満4年ぐらいと思われますが、第3位のオスとくらべると体も小さく、まだ子供っぽいところがあります。あぶれオスの中で末席を占めています。
 あぶれオスは2匹で組んで出て来ることが多いのですが、こういった場合に弱い方のオスが敵に向かって攻撃を加えなければならない義務があります。そうしないと強い方のオスからずいぶんひどく叱られます。このようなためかどうか明らかではありませんが、この5番目のオスはよく腕などに傷をしていました。また、一度、おそらく第2位のオスのために、海へ追いおとされたこともありました。
 この写真はわたくしたちが、磯にまいたイモを食べに来たところです。


ニホンザルの社会 4

 メスは一般に毛色などはたいしてオスとはちがいませんが、顔はメスの方が赤いのがふつうです。メスの間にもオスと同じように1位、2位の強さの順位が決まっています。

 このメスは2番目のサルですがずいぶん小さく貧弱です。このような点からして、一般にサルの順位は年齢によってきまるのではないかと考えられます。


ニホンザルの社会 5  生後4ヶ月半の子ザルを抱いて、乳をふくませているメスです。この子ザルは1952年8月15日に生まれました。母親は比較的若いサルで、順位はメスの中で第4位を占めています。この子ザルは母親からはなれて走りまわったり、ほかの子ザルと一緒に遊んだりしますし、もう母親の乳ばかりではなくて、府中の食物も食べるようになっています。これと同じような子ザルが3匹いますが、子ザル同士はとても仲よしで、木の枝に足でつかまってぶらさがり、手ですもうをとるといった変な遊びをします。このようにしてあそんでいるときに、私たちが近寄ったりしますと、側にいた母親が素早くとんで行って、子ザルを腹に抱いたり、自分の尻の上にのせたりして逃げてゆきます。


ニホンザルの社会 6 ここは、島のオオドマリという入江の一部です。

 大きな岩が折り重なっていて、観察には非常に便利でありますので、毎日ここに餌をまくことにしました。幸島の群れは、島の中にたったひとつだけで、その群れは20匹からなっており、そのほかに群れからはなれたオスのサルが1匹います。この写真は、群れの中の7匹が出て来て、餌を食べているところです。休息のときとか、移動するときには、お互い同士が寄りあっているのを見ますが、食物を食べるときだけは、1匹1匹のあいだに、はっきりした間隔が見られます。つまり、1匹1匹が自分のなわばりを宣言しているわけです。その中で一番上等の場所は、一番順位の高いサルが占領します。サルの社会で順位制というものは、おきてのようなもので、多くの行動はこれにもとづいて行なわれます。


ニホンザルの社会 7

 群れの中のまとまりかたを見ますと、同じ年齢のもの同士が集まりあうという傾向があります。この中でもっともはっきりしているのは、子供たちのあそび仲間です。子ザルたちの間には、まだ大人のサルの間に見られるような、はっきりした順位は決まっていません。そして子ザル同士みんなで集まりあってあそぶのをよく見かけます。丁度1歳半位になる子ザルが6匹いましたが、この写真では4匹が出ています。左端の1匹は2年半になるメスですが、同じ年齢の仲間が1匹もいないので、子供の仲間入りをしていました。上の2匹は大人のメスザルです。


ニホンザルの社会 8

 ここに写っているのは、上が順位4番目のオス、下が順位3番目のオスです。これはオス同士で行われていますが、丁度交尾の姿勢と同じです。この写真を写す直前には、これと丁度逆で、第3番目のオスが上、第4番目のオスが下になっていました。そしてつぎに交代して、この写真のようになったのです。一般には、この交代は、極く小さいサルの間には見られますが、これだけ大きくなったものに見られることは、珍しいことです。オス同士で交尾の姿勢をとるということは、社会的にひとつの意味をもっています。この写真では交代したため逆になっていますが、一般には弱い方のオスが、強いオスの前で、メスの交尾姿勢をとり、それに対して強い方のオスが交尾をします。これによって、弱い方のオスは強い方のオスから攻撃をさけることが出来るのです。とてもひどく追いまわされているようなときでも、弱い方が召すの交尾姿勢をとったために、それ以上追われなくてすむということはしばしばあります。この関係は弱い方にとってみると、いわば降伏のしるしであり、両方の仲なおりのような意味を持っているわけです。この写真をとったすぐあとにおこったのがつぎの㈷の写真です。


ニホンザルの社会 9  和解がなりたつと、たいていの場合は、この写真のように2匹の間で毛づくろい(グルーミング)が行われます。ただ注意すべきことは、弱い方が強い方の毛づくろいをしてやるということです。ふつうのグルーミングですと、たとえ一番強いオスと、小さい子ザルとのグルーミングの場合でも交代のあるのが通常なのですが、この場合だけはもっぱら強い方が毛づくろいをしてもらう一方で交代はありません。
 この写真は、第4番目のオスが一心に第3番目のオスのグルーミングをしているところです。片手でふかぶかとした毛をわけて、もう一方の手でたんねんに毛の間にくっついているゴミやフケをとり、ときどきそれを自分の口にもってゆきます。これはシラミとりではなくて、毛のあいだにたまっている塩分をとっているのだといわれています。
 このようにたえずグルーミングをしているために、野生のサルは非常に手入れの行きとどいた美しい毛をしています。


ニホンザルの社会 10  まるで置物のサルが3ツおいてあるように、3匹並んでいますが、右が群れで一番強いオス、まんなかは、メスの中で第4位のサル、左が第2位のメスです。幸島では交尾期が正月頃からはじまりますが、この写真は交尾期があと1週間に近づいたころのある朝とったものです。発情に近づいたメスは次第にオスに近寄るようになります。そして一番強いオスのまわりに集まって来ます。群れには順位にもとづいた秩序があることはすでに書きましたが、発情期のメスの間には一番強いオスを中心にして、もうひとつ別な秩序が見られるようになります。すなわち発情の強さの度合いによってリーダーのオスに近寄れる特権の順位が決まるわけです。この写真は以上のような関係をよくあらわしています。オスの近くにいる第4位のメスの方が、第2位のメスよりも順位がひくいにもかかわらず、発情がすすんでいるためにオスの近くに寄ることが出来、オスから庇護をうける度あいも大きいわけです。餌を食べるときでも発情のすすんだメスは、オスと一緒に食べることが出来ます。
 この写真のような状態がしばらくつづいたのち、1匹のメスの発情が更に進んで来ますと、そのメスとリーダーのオスの2匹はひときわ強いまとまりを示して、夫婦生活に入っていきます。


ニホンザルの社会 11  生後1ヵ年半になる子ザル同士が2匹で、あたたかい岩穴の中に入って、グルーミングをしています。脇の下あたりをグルーミングをしていますので、されている方は片手をあげています。㈷のグルーミングとはちがってこのようなふつうのグルーミングの場合は、しばらくたつと必ず交代があります。採食をおわったあと、ひだまりに出て、あちらでもこちらでも2〜3匹つづかたまってグルーミングをしますが、これは彼等の日課のひとつになっています。雨のあとなどにはとくにたんねんなグルーミングが見られます。


ニホンザルの社会 12

 (1)の写真に出て来た例の一番強いオス、群れのリーダーです。大きな口をあけているのは、こちらに咬みつこうとしているのではなくて、あくびをしているのです。これは、約3mのところから撮ったのですが、特に警戒の厳重なこのオスに、こんな近くまで接近できるようになるまでには、随分苦労がいりました。とくにたくましいリーダーの特徴がこの写真ではよく出ております。





『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び6〜9ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
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Vol.01 04-05 弁財天さまと幸島の由来 − サルの伝説 −

 いつ頃から島にサルが住みついたのか、誰も知りません。それほど遠い昔から、住んでいたのです。
 村の老人は、子から孫へと、こんな話を聞かせたものです。

 −むかしむかし、京の都のある高貴なお方に、ひとりの美しい娘がおったそうな。みんなから、「お姫さまお姫さま」といってかしづかれ、愛されておったのだが、下僕を恋したので、父君はたいへん立腹されて、サルの夫婦を召使として、いっしょに舟に乗せると、海に流してしまわれたのじゃ。  舟は流れ流れて、とある小さな島にたどり着いたのじゃ。姫は島に上がってサルといっしょに住みつかれた。そして、魚たちを島によびよせたり、海で漁をする男たちの大漁と無事を祈ったり、田んぼで働く農民の豊作を願って暮らされたのじゃ。  それからは、大漁、豊作続きで村は大変豊かになった。それで、姫の住む島を幸島というようになったのじゃ。

弁財天さまと幸島の由来  美しい姫さまを、幸せの使者として、尊敬していた村人は、姫の死を大変悲しんで、オオドマリ(大泊)の上の森に社(やしろ)をたて幸福の女神、ビザイテンさまとして祀りました。
 村人が心をこめて刻んだその像は、頭上に男の神様をかぶり、美しい姫は八本の手を持ち後ろに五光が輝いています。
 これは村人が姫の徳を表したものといわれています。
 頭上の男の神は夫を敬い家庭円満を表し、右手の四本は、愛情、信頼、協力、慈悲、左手の四本は、智恵、勇気、決断力、健康を表し、人々に心豊かに平和に暮らすことを教えてくれています。
 今でも漁師たちは、遠く漁に出かけるときは、かならず、オオドマリ湾の上の森にあるビザイテンさまにおまいりして、大漁と無事を祈願してから海にのりだすのです。
 またビザイテンさまが陸の方に出ていらっしゃったときに海が荒れてお帰り出来ない時の仮のお宿として、石波海岸樹林の一角に石のお社が立てられています。このまわりは、近所の人が、今でも掃き清めて花を供えています。
 島のサルたちは「わこさま*」と呼ばれ、ビザイテンさまのお使いとされています。幸島に魚つりに行ってサルに弁当を取られても「わこさま、弁当を食べたら、弁当箱だけは返しておくれ。」
 といって、サルがからになった弁当箱を投げてくれるまで待っているのです。
 また島の樹木は、
 「わこさまのものだ、木を切るとばちがあたる。」
 と、村の老人たちは、子から孫へと言いつたえてきました。
 こうして護られたビザイテンの森は、オノを入れたことのない原生林で、カゴノキやイスノキの大木があり、ヤマモモやイヌマキなど何百年もの風雨にたえ、毎年サル達においしい実を与えています。村人も海岸では海藻や貝を採取し、平和な生活を長年続けてきました。
 しかし、終戦後にはサル狩があったり、最近訪れる釣客や観光客の中には、サルに取られた食べものに腹を立て、サルに仕返しをする人もあります。ここはサルの居住地であることを忘れないでください。


石波のお社 (右写真:石波のお社)

* わこさま、「和子」身分の高い人の子を尊敬した言い方。(「三省堂国語辞典」)

注=ビザイテンさまは、安永11年に作られましたが、その後いたみがひどく、昭和19年に桑山某氏がその像を復元しました。その時そばにはべっていた2匹のサルの像を復元するのを忘れてしまって、現在はサルがいません。




『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び4〜5ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
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Vol.01 00-03 こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING 表紙

   さるたちは
      若き世代に
         なりぬれど
    昔かわらぬ
       緑の島影
                   錦司


幸島

発刊のごあいさつ

 わたしたちを取り巻く環境は、あっと言う間に人工化し急速に自然が破壊されて、とどまるところを知りません。でも、ここ幸島には、まだ豊かな自然がそのまま残っているのです。
 澄みきった青い海に守られた幸島は照葉樹に覆われ、その中には原生林があり、ここで無心に繁栄を続けているサルやタヌキ、ウサギなどがいます。
 また、対岸の石波海岸樹林では、ハカマカズラやタチバナ、それに亜熱帯林など植生豊かな森で小鳥は舞い、小動物は歓喜の大合唱を続けています。
 昭和30年頃までは、セミやトンボ捕りに興じ、川や海で遊び、木登りに夢中になって自然と戯れていた子供たちは、いつの間にか姿を消してしまいました。
 また、大人たちも、日常の慌ただしい生活の中で働き続け、精神をすり減らしています。
 こうした、都会の日常生活の喧騒から抜け出して、大人も子供も自然の一員となり、その中に溶け込み、静かにサルの行動を見たり、また、照葉樹林の中の小鳥や小動物、更に海の生物を観察できる一助になればと思い、季刊誌【幸島】を発刊することにいたしました。
 また皆様のお陰で財団法人ができることになり、この一帯の自然が完全に保護できることに感謝すると共に、親と子の学習の場として、有効に利用出来るようスタッフ一同お手伝いしたいと思います。
 今後のご協力をお願いして、発刊のご挨拶と致します。


『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING』の表紙及び2〜3ページより転載。


このコンテンツ及び写真等は、発行人の許可を得て、冊子『こうしま 幸島 HAPPY ISLAND』より転載したものです。オリジナルを出来るだけ忠実にコンテンツ化しているため、ページのつなぎ目や文字が重なった写真やイラスト等は、特別な加工を行わず、そのまま掲載しています。


こうしま 幸島 HAPPY ISLAND 1992. SPRING

発行日:1992年1月31日
発行所:財団法人幸島自然保護センター設立準備委員会
発行人:三戸サツエ(〒889-33 宮崎県串間市大字市木150)
写真協力:宮崎日日新聞社、芥川仁、河野充、中原聡
イラスト:有明小の子供たち、篠原太郎
posted by みやざきの自然 at 20:32| こうしま | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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